
しかしその当時であっても保守的な美術会からは理解されず、批判にも多くあった。
そんなモネの作品から50以上前にその始まりとも言える作品を作っていた人物がいた。それがタナーである。
彼は時代の先を行き過ぎた天才であったのか?
時代の先をいった天才、ターナー
ターナー ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年4月23日 - 1851年12月19日)18世紀から19世紀にかけて活躍したイギリスのロマン主義の画家。日本ではあまり名を聞かないが、イギリスでは「英国が産んだ最も偉大な画家」とも言われている 。
写実的な画風で評価
ターナーの育った環境は特殊であった。ロンドンの理髪師の息子として生まれた。母親は精神疾患を持っており、子供の世話を十分にすることができなかったという。学校にもほとんど通わずに13歳の時に風景画家トーマス・マートンに弟子入りをした。1年ほど修行したのち、ロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学した。
その後若くして27歳の時にロイヤル・アカデミー正会員 となった。そして初期は写実的な風景画を描き評価される。
若くから画家としては評価され、成功を納めていたタナーだが、無口で不愛想で人付き合いもあまりよくなかったという。
また母親の病気の影響から女性不信でもあり生涯独身だったという。
作品 「海の漁師たち」 1796
ターナーの初期の頃の作品だ。1975年にワイト島に旅行した際に海岸線のスケッチを多く残した。その翌年にアカデミーに出展した10点の水彩画と1点の油彩画の中の一つの作品だ。タナー21歳の時の作品だ。批評からも高評価を得た。
月夜の荒れ狂う海に揺られる船の情景を描いた。月の明かりと夜のコントラストが見事な作品だ。
作品 「トラファルガーの海戦」1806-08年作
トラファルガーの海戦とは1805年10月21日にあったナポレオン戦争における最大の海戦でる。スペインのトラファルガー岬の沖で行われたことからこの名がついた。イギリス軍とスペイン軍の戦いだ。その様子を描いた。
タナーはこの戦いから戻ったヴィクトリー号をのスケッチを取り、また乗組員に詳細に話を聞き描かれた。
この戦いはイギリス軍が大勝を収めるが、イギリスのネルソン提督は戦死した。
作品 「カルタゴを建設するディドー」1815
ターナーの作品の中で最も有名な作品の一つ。ターナー自身も気に入っていた作品だ 。古代ローマの詩人ウェルギリウスに書かれてある、古代都市カルタゴを建国した女王の伝説を元に描かれた歴史絵画だ。 アカデミーにからも好評を得た。
端から端まで描かれた水は、中央に引き込まれるように流れていき、見ている者が舟で港から出港するかのように見える。
その先には靄がかった景色に無限に広がる様な錯覚を覚える。このような壮大でロマンのある絵画は他に例をみない作品である。
タナーの転機
写実的な作風の絵画を描いていたタナーに転機が訪れたのは、1819年の44歳の時のイタリア旅行だと言われている。イタリアはイギリスと違い太陽の光にみちた場所でああった。その光と豊かな色彩にタナーは魅せられた。
中でもヴェネチアが好きでなんども訪れたという。
そしてその頃から大気や光といったもに注目し追求するようになった。抽象的な作品を描くようになった。
作品 「色の始まり」 1819
イタリア旅行に行った年に描かれた作品だ。具体的なものは何も描かれたていない。タナー自身の新たな始まりも予感させる作品だ。明るい浜辺と透き通る海と空がそこに見えて来そうだ。
作品 「雨、蒸気、スピード グレート・ウエスタン鉄道」1842年
当時のイギリスの産業革命・近代化を代表する蒸気機関車が、激しい嵐の中でテムズのメイドンヘッド橋を渡る。本人が近代化に肯定的なだったのか否定的だったのかは?評論家の間でも意見が別れているが、否定的だった可能性の方が高いと言われている。
これは近代化を批判する作品でもあるのか?
荒々しい空気の中に機関車の車体とヘッドライトの光が突き進む風景を圧倒的な臨場感で描いている。
初期の写実的な作品とは全く違い全体がぼんやりと描かれている。物体だけでなく、光や空気まで表現しようとしたのだ。
まさに印象派の世界を先取りしていたかのようだ。またこの視界が霞むような幻想的な雰囲気は、当時のイギリスの情景を想像させてくれる。
まとめ
若き時から評価され、成功し天才と言われた。しかしその評価された露ロマン主義・写実主義に満足せずに絵を追求したのだ。
そして印象派が登場する、その50年以上前にその境地に辿りついていたのだ。それはまさしく本物の天才であろう。
参考:ネット美術館「アートまとめん」 http://artmatome.com/
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