いじめ問題。相手に原因があってもいじめはダメ 【t】

いじめ問題。相手に原因があってもいじめはダメ 【tho】
いつの時代もいじめ問題が多く議論される。

議論がさているのに一向になくなる気はしない。
もはや議論の視点を根本からかえなくてはいけない。

よく議論されるのが「いじめられる側に原因はあるのか?」
だこの議論自体が無意味であるのだ。

どっちでもいいのだ、いじめられる側に原因があってもなくてもどっちでもいいのだ。
その理論でいけば原因があればいじめていいということになるからだ。 

いじめられる原因はあるのだ。
その上で原因があったとしても、いじめてはいけないのだ。


原因は作り出される 

ここで言いたいのは原因はあるのではなく、生み出されるということである。
原因はいじめる側によって生み出されてしまうのだ。

「なんかあいつ調子乗ってる」、いじめられた側は原因なんてないと思っていても、相手には原因が生まれているのだ。

だからいじめられる側に原因があるかないか?の議論は意味がないのだ。

この構造は子供のいじめ問題だけでなく、社会でも多く現象だ。ネットやニュースで炎上や批判も同じ現象だ。

問題や原因は見る側によって作り出されるのだ。

多く選択肢を教えてあげる 

だが相手にイラつくとやムカつくことは誰だってあるだろう。
ムカつかない聖人になれというのは簡単ではない。

子供たちはそのムカついた時の気持ちの処理がわからずに、
いじめという反応をしてしまうのである。 

その時の反応の選択肢を教えてあげるしかないのだ。

だがそれが難しいのも事実だ。選択肢を増やす教育が必要だ。

大人は原因を示していじめをする 

いじめ問題。相手に原因があってもいじめはダメ 【tho】
またいじめしてしまう子供はその原因を明確に表現できていないのだとも思う。
ので相手側には原因がなくいじめているよう見える。

しかし大人は原因を言語化できたり説明できたりする。
つまり相手に原因があるんだーだから攻撃していいでしょ?となる。

これがお大人の世界の厄介な部分だ。

ネットで芸能人を叩くのもその一種だ、叩いている本人は相手が叩かれて当然のことをしているので、「自分は悪くない正義だ」と思っている。
しかしそれはいじめとなんら変わりはない。

子供のいじめから、職場のいじめ、上司のパワハラからネットの芸能人のたたき、
歴史的な虐殺事件など根本は同じである。 

まとめ

原因は相手にあるのではなく自分が生み出すということ、そして原因があってもいじめや攻撃という反応をしてはいけないこと。

これらのことを意識して日々を過ごすしかない。
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