中身で判断するより、外見で判断する方が愛がある【tho】

人は中身か、外見か?
そんな話をしたことがあるだろう。

「人は結局中身だよねー、顔は気にしない。外見ではなく中身が大事。」 そんな話をしたり、盛り上がったりしたことがあるはずだ。

「外見で判断するのはダメで、中身が大事だ」
それが正しいという空気感があるが、僕はどっちでも同じだと思うのだ。さらに言ってしまえば外見で判断す方が愛があると言える。

判断するのには変わりはない

中身で判断するより、外見で判断する方が愛がある【tho】
結局は人を何かの基準を持って判断するという事に変わりはない
中身で判断か、外見で判断するのか?そこに大きな違いはない。

しかし「中身で判断するのがいい」という空気感には違和感を感じている。

「判断しません、どんな人でも受け入れる」と言っているわけではないのだ。

「中身をジャッジするよ?場合によっては否定するよ?」
と言っているのだ。

どうせジャッジをするのなら中身より外見でした方がいい。



中身の方が大事

人は心や中身が本質で大事であるのだ。

だからこそ、中身をジャッジする事は難しいと思うのだ。。その中身をジャッジするなんて傲慢だとも言える。

中身を否定」されるのと「外見を否定」されるのどっちがいいであろうか?

自分であれば外見の方がいい。
中身が本来の自分であると思うからだ。

外見を否定されても、それは単純に好みの違いだなと諦める事ができる。

しかし中身で否定されるのことの方が精神的にきついのだ。
自分の根本を否定される方がきついのだ。

もちろん人の中身を見るという意識は大事であろう。しかしそこにジャッジが加わっては意味がないのだ

「あの人は性格悪い〜、性格ダメ」とか神にでもなった気でいるのだろうか?

まとめ

このような理由から中身で判断するということは愛がないのだ。無慈悲な神のように鉄槌を下すのである。

全ての人を受け入れる事ができれば、それはすばらしい事であろう。

しかしそれは難しい事であろう、なので外見で判断してあげよう。

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