その姿を見れば、核兵器の恐ろしさ戦争の愚かさを教えてくれる存在だ。
今や世界遺産となり世界中から多くの人が訪れる。
しかしその原爆ドームが象徴になったのはある1人の建築家の思いと意図があったのだ。
当初は取り壊される予定だった?原爆ドーム
現在、平和祈念公園を訪れると平和記念資料館から線が伸び、その先には原爆ドームをみることができる。これにより戦争や、原爆の恐ろしさを一層に感じ、犠牲者に思いを馳せることができる。
実はこの原爆ドームは当初は取り壊される予定すらあった。
そんな原爆ドームが今や世界遺産になり、象徴になったのは1人の建築家の存在があった。
丹下健三とは?
その建築家こそ、日本を代表し世界のタンゲと言われる建築家、丹下健三である。代々木体育館や東京カテドラル大聖堂、東京都庁、そして広島平和記念資料館を作った人物だ。
建築界のノーベル賞と言われるプリッツカー賞を日本人で初めて受賞した人物だ。
愛媛出身の丹下は広島高等学校(現在の広島大学)に進学する。
そんな大学時代を過ごした広島に原爆が落とされたことは丹下にとっても衝撃で思いはあっただろう。
原爆ドームを象徴にした丹下案
1946年に現在の平和記念公園がある中島を中島公園として整備する計画が持ち上がる。1949年に「広島平和記念都市建設法」が制定され、設計案が公募される。
145点の応募があった。そしてその中から東大の助教授であった丹下健三の案が採用された。
当初の計画では現在の原爆ドーム(広島産業奨励館)は公園の計画に入っていなかった。
「復興するのに残すのか?」、「経済的に役に立たない」
と言う意見があり取り壊すことも計画されていた。
そんな時に設計案で唯一、原爆ドームも取り入れた案を提案したのが丹下案であった。
原爆ドームから平和大通りに直角に線をおろし、その線に直角に交わるように平和資料館などを配置した。
「原爆の恐ろしさ、残虐さ、非人間性、そうしたことを永久に忘れないために、もう二度と人類が原爆を使用しないために、このドームはシンボルとして残すべきだ」
と丹下は言った。
その当時は残るか残らないかわからなかった原爆ドームに注目し、今では世界遺産にもなったのは丹下のおかげもあるのかもしれない。
人間は目先の今年かなかなか考えられないのだ。
何十年先のことえを考え、それが必要になると確信したその丹下の目は本物であっただろう。
慰霊碑から原爆ドームを望む。
実はこの慰霊碑のアーチ状のモニュメント、実はこのモニュメントを丹下はイサム・ノグチに作って欲しいと懇願していた。
しかし日系アメリカ人が作ることを審議員会に反対され実現することはなかった。
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原爆ドームを訪れた際は丹下健三が託した思いを思い出してみてはどうだろうか?
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