東洲斎 写楽、幻と言われた浮世絵師。作品を作った期間はわずか10ヶ月?【a】

生没年不明??

江戸中期に突然現れ、わずか10ヶ月の間に多くの役者絵を描き残した謎の浮世絵師、写楽とは??

幻の浮世絵師、東洲斎 写楽

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく)、とうじゅうさいとも呼ぶ。江戸時代中期の浮世絵師。

寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の短い期間に現れ、145点余りの作品を残した。

当時の人気歌舞伎役者の見得を迫力ある浮世絵に描いた作品で民衆を虜にした。
役者絵の一つの頂点とも言われている。
(=俳優が、感情の高揚した場面で、一瞬動きを停止して、にらむようにして一定のポーズをとること。)

しかしその後は忽然と姿を消した伝説の浮世師だ。

役者絵の到達点?写楽

写楽の特徴はなんと言っても歌舞伎役者の大首絵だ。
大首絵とは江戸時代の浮世絵の様式の一つである。歌舞伎役者遊女、評判娘、などの半身像や胸像として捉えた浮世絵版画をさす。

江戸時代に役者絵の写楽、美人画の喜多川歌麿と言われ頂点を極めた。
そんな写楽の迫力ある作品を紹介しよう。

三代目大谷鬼次の江戸兵衛

写楽の最も有名な作品がこの役者絵だ。どこかで見たこともあるだろう。

政6年5月に河原崎座「恋女房染分手綱」の上演の際に歌舞伎役者、三代目大谷鬼が演じた江戸兵衛を捉えた一枚。


鋭い目と迫真の表情は演目の魅力を場面を良く伝えている。初代歌川豊国も同じ場面を描いており、見比べると両者の特徴がよく理解できる。

役者の顔や表情をデフォルメして描き、その内面の迫力も伝えよとする意図が見て取れる。

市川鰕蔵の竹村定之進


歌舞伎の「恋女房染分手綱」を描いた一枚。
えびぞうだがもちろん現在の市川海老蔵ではない。

市川鰕蔵が演じた定之進は由留木家の能指南役で、不義の罪に問われた娘重の井を助ける為に、主君に道成寺の秘伝伝授を行うとストーリーだ。


当時、市川鰕蔵は歌舞伎界きってのスターであった。
作品には鰕蔵の迫真の表情が見事に表現されており、人々に歌舞伎の魅力を伝えている。

三代目澤村宗十郎の大岸蔵人

狂言「花菖蒲文禄曽我」を描いた一枚。
藤川水右衛門が剣術で負けた石井兵衛を闇討ちにした巻物を奪った。大岸蔵人は正義感が強く仇討ちの手助けをした。

絵では一文字に結ばれた口と凛々しい表情でその性格を表現している。

二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊

寛政6年5月に河原崎座で上演された切狂言「義経千本桜」四段目の吉野山川連法眼館の場面を描いた一枚。



2人の役者が躍動感ある様子で交わるよ様子が表現されている。




まとめ:正体は?

写楽の正体は誰なのか?それは完全には明らかないなっておらず謎のままである。
しかし研究がされ、おそらくという人物は特定された。

それが阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)
であったという説だ。

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当時江戸の八丁堀には徳島藩の江戸屋敷が存在しておりその中にお抱えの能役者も居住していた。

また写楽が浮世絵を出版していた版元、蔦屋重三郎の店も写楽が画題としていた芝居小屋の近隣に位置していた。

またペンネームの「東洲斎」も東の洲という意味で捉えれば当時の江戸の八丁堀か築地あたりを指すことになる。

さらに東洲斎を並び替えると「さい とう じゅう 斎藤十」になることからヒントを隠していたのでは推測されているのだ。


どこから来たのか?なぜいなくなったのか?
確実はなことわからず謎が多いのが写楽だ。しかしその謎もまた良いのかもしれない。
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