抽象画は20世紀に登場した絵画のジャンルだ。
そこから現代アートは発展したと言ってもいいくらいだ。
その創始者とも言われているのがモンドリアンである。
黒い水平の線と垂直の線、そして赤、青、黄の3原色で描かれた「コンポジション」を描いた。
そんな色彩と線の世界とは?
記号や幾何学的な図形で描かれることが多い。
広義にはピカソなどのキュビズも含むこともある。
今では多くの画家が抽象画を描くが、その中でも抽象画を確立したと言われるのがピエト・モンドリアンである。
ピエト・モンドリアン(1872ー1944)オランダに生まれ。19世紀末から20世紀にかけて活躍した。
オランダのアメルスフォールトに生まれ、幼少の頃から叔父に連れられ郊外にスケッチに行くなど絵画に親しんでいた。
その後
20歳のころ1892年から3年間、アムステルダム国立美術アカデミーにおいて伝統的な美術教育を学んだ。
しかし卒業後は印象派やポスト印象派そしてキュビズムなどに影響を受け、画風も変化していく。
転機となったのは1911年だ。
アムステルダムでの美術展でキュビズム作品に強い衝撃を受けた。そしてパリに行くことを決心した。
1912年~1914年にかけパリに行くと、
ピカソやブラックが提唱するキュビズムの理論を学び、平面的・幾何学的な形態への還元に取り組んだ。
その過程でさらに抽象へと突き動かされ、キュビズムのその先の作品を目指し始めた。
実は当初は普通に具体的な対象物を描く作風の作品を描いていたモンドリアンであった。
太陽の中の風車 1908
ピカソのキュビズムに影響されて抽象的な作品を描くようになったのは、
40後半になってからなのだ。
しかし同時期に第一次世界大戦が始まり、パリに戻ることができなくなってしまった。
そしてオランダで建築家で画家でもあるテオ・ファン・ドースブルフと出会う。
2人は意気投合し、
1917年にモンドリアンが提唱した新造形主義の芸術雑誌「デ・ステイル」を発行し、同名の芸術グーループを作り作品を発表していく。
「宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要」
とモンドリアンは語り、さらにその世界を極めていくのである。
この時期に作った作品が最も有名である。
コンポジションの名がついた作品を発表していく。
その作風は冷たい抽象と言われ、極限までに幾何学化、単純化された作品を描くようになる。
垂直と水平の線、そして色彩で描かれる作品だ。いくつか紹介しよう。
よりシンプルになり、洗練されていった。
「完全な調和を表すには絵画は平面でなくてはならない」というモンドリアンの考えがあった。
他にもコンポジションシリーズは多く描かれた。
その時代の代表作がこの作品である。
晩年の作品で、どこか楽し気な雰囲気を感じることができる作品だ。
この作品はニューヨークの基盤状に整備された街並みと、アメリカジャズの「ブギ・ウギ」を聴いて触発された作品だ。
ニューヨークの喧噪やネオンに輝きが感じられるようである。
最後にこんな作品も、
https://artpause.com/maps/100202-mondrian-style-world-map.html
モンドリアン風の世界地図である。モンドリアンの作品ではなく、モンドリアンに触発されてつくられた作品だ。
しかし面白い。
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そこから現代アートは発展したと言ってもいいくらいだ。
その創始者とも言われているのがモンドリアンである。
黒い水平の線と垂直の線、そして赤、青、黄の3原色で描かれた「コンポジション」を描いた。
そんな色彩と線の世界とは?
具体的な対象を描かない?抽象絵画とは?
それまでの絵画のように具体的な人物や風景、物を描くことのない絵画のことである。記号や幾何学的な図形で描かれることが多い。
広義にはピカソなどのキュビズも含むこともある。
今では多くの画家が抽象画を描くが、その中でも抽象画を確立したと言われるのがピエト・モンドリアンである。
ピエト・モンドリアン
自画像 1918ピエト・モンドリアン(1872ー1944)オランダに生まれ。19世紀末から20世紀にかけて活躍した。
オランダのアメルスフォールトに生まれ、幼少の頃から叔父に連れられ郊外にスケッチに行くなど絵画に親しんでいた。
その後
20歳のころ1892年から3年間、アムステルダム国立美術アカデミーにおいて伝統的な美術教育を学んだ。
しかし卒業後は印象派やポスト印象派そしてキュビズムなどに影響を受け、画風も変化していく。
転機となったのは1911年だ。
アムステルダムでの美術展でキュビズム作品に強い衝撃を受けた。そしてパリに行くことを決心した。
1912年~1914年にかけパリに行くと、
ピカソやブラックが提唱するキュビズムの理論を学び、平面的・幾何学的な形態への還元に取り組んだ。
その過程でさらに抽象へと突き動かされ、キュビズムのその先の作品を目指し始めた。
実は当初は普通に具体的な対象物を描く作風の作品を描いていたモンドリアンであった。
太陽の中の風車 1908
ピカソのキュビズムに影響されて抽象的な作品を描くようになったのは、
40後半になってからなのだ。
宇宙の調和を表現する
パリでキュビズムを学んだ後にモンドリアンは父親が病に倒れたのをきっかけにオランダへと戻った。
そしてオランダで建築家で画家でもあるテオ・ファン・ドースブルフと出会う。
2人は意気投合し、
1917年にモンドリアンが提唱した新造形主義の芸術雑誌「デ・ステイル」を発行し、同名の芸術グーループを作り作品を発表していく。
「宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要」
とモンドリアンは語り、さらにその世界を極めていくのである。
この時期に作った作品が最も有名である。
コンポジションの名がついた作品を発表していく。
その作風は冷たい抽象と言われ、極限までに幾何学化、単純化された作品を描くようになる。
コンポジションシリーズ
そしてモンドリアンの作品でもっとも有名なのがコンポジションシリーズだ。垂直と水平の線、そして色彩で描かれる作品だ。いくつか紹介しよう。
コンポジションⅡ(線と色) 1913
コンポジション A 黒、赤、灰色、黄色、青のコンポジション 1920
コンポジション 大きな青地、赤、黒、黄色、灰色 1921
青、黄色、黒、赤のコンポジション 1922
ひし形のコンポジション 赤、黒、青、黄 1925
黄片のコンポジション 1930
コンポジション 第10番 1939-1942
赤・青・黄のコンポジション 1930
このシリーズを何かを追求するかの様に描き続けた。よりシンプルになり、洗練されていった。
「完全な調和を表すには絵画は平面でなくてはならない」というモンドリアンの考えがあった。
他にもコンポジションシリーズは多く描かれた。
ブギ・ウギシリーズ
シンプルな抽象画を描いていたモンドリアンであるが、晩年は現実世界に影響を受けた温かみや動きのある抽象画を描くようになっていた。ブロードウェイ・ブギ・ウギ 1942ー1943
モンドリアンは1940年に戦火を避けてアメリカ、ニューヨークに亡命をした。その時代の代表作がこの作品である。
晩年の作品で、どこか楽し気な雰囲気を感じることができる作品だ。
この作品はニューヨークの基盤状に整備された街並みと、アメリカジャズの「ブギ・ウギ」を聴いて触発された作品だ。
ニューヨークの喧噪やネオンに輝きが感じられるようである。
ヴィクトリー・ブギ=ウギ 1943-44
ブロードウェイ・ブギ・ウギに似た、モンドリアン最期の未完の作品だ。最後にこんな作品も、
モンドリアン風の世界地図である。モンドリアンの作品ではなく、モンドリアンに触発されてつくられた作品だ。
しかし面白い。
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今見ても古さを感じない、モンドリアンの作品は普遍的な要素があるのだろう。
それは時代や国を超え、これからも受け継がれるだろう。
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