明治の起業家、渡辺翁から学ぶ!炭鉱閉鎖後も衰退しなかった宇部市。【y】

今日は宇部を作ったと言われる明治・大正の実業家、渡辺翁から学ぼう。

宇部はかつて炭鉱により発展した町だ。
日本には炭鉱で発展した町はいくつかあるが、炭鉱の閉鎖と共に人口が減少し衰退した場所も少なくない。

今では廃墟マニアの聖地!のようなかつての炭鉱の町が多くある。


しかし宇部はそうなってはいない。

宇部は炭鉱が閉鎖しても廃れることがなかったのだ。
それも全て渡辺翁のおかげなのだ!

そんな翁から再投資の重要性を学ぼう!


宇部の基礎を作った実業家、渡辺翁

今では山口県の中で三番目に人口の多い市になった宇部市である。
工業都市であり、宇部興産は全国的に知られている会社だ。

しかし宇部は江戸時代までは存在感のない寒村であった。
そんな宇部を発展せ、今の宇部の基礎を作ったのが渡辺翁(わたなべおうである。


宇部市民であれば誰しも名前は知っているだろう。

渡辺翁記念会館など宇部のコンサートホールにもその名がついている。
詳しい事は知らないが、宇部の歴史的な偉い人という印象だ。


でもやっぱりすごかった!渡辺翁!

炭鉱で発展!宇部興産の前身を作った人物

渡辺祐策(わたなべ すけさく)1864年〜1934年

国吉恭輔の次男として現在の宇部市に生まれる。その後、江戸時代の宇部の領主福原氏の家臣、渡辺家を継いだため渡辺性になる。


岩国藩の陽明学者・東沢瀉の私塾で学び、その後上宇部村戸長役場用掛、村議会議員、助役などを務めた。

宇部の領主、福原良通が亡くなったのち、
沖ノ山炭鉱を創業した。1897年

炭鉱事業を軌道にのせ、宇部を発展させて行った。
炭鉱により宇部は急速に人口が増え、村制から町をへずに市制へと移行した。1921年

そして
宇部新川鉄工所(後の宇部鉄工所)、宇部紡績所(後の宇部紡績)、宇部セメント製造、宇部窒素工業、宇部電気鉄道(現在のJR小野田線)、新沖ノ山炭鉱など数々の企業を起こす。

しかし道半ば、
渡辺翁は1934年に70歳で亡くなる。

その後翁が起こした、
沖ノ山炭鉱、宇部鉄工所、宇部セメント製造、宇部窒素工業は、
合併して現在の宇部興産と続くのだ


現在の宇部は宇部興産とその関連企業で成り立っていると言っても過言ではい。
宇部興産がなかったら、、と考えると恐ろしいのだ…

多くの炭鉱で発展した町が衰退?

日本でもかつては炭鉱によって栄えたが、石炭から石油へと燃料が変わり、
炭鉱が閉鎖されるのと同時に衰退する町が多くある。

長崎の池島炭鉱や、北海道に雄別など、、
炭鉱の閉鎖と共に人口が減少し廃れ、廃墟の町になった場所が多くある。


多くの日本各地の炭鉱と同じように宇部の炭鉱も縮小し、1967年にまで全て閉鎖された。


宇部は炭鉱以外は何もなかった寒村だった、、
炭鉱が無くなると衰退する可能性も多いにあっただろう。


しかし宇部は衰退することなくその後も経済の発展をした。


その最も大きい要因は宇部興産があったからだ。

それには渡辺翁が未来を見据えた投資をし、
石炭に頼らない産業を起こしていたからだ。


翁から学ぶ再投資の重要性!

石炭に頼らないまちづくりに転換!
と今考えれば簡単で普通の事のように思える。。しかしそれを実際に実現した事がすごい。

渡辺翁は
「埋蔵量に限りのある石炭を掘り尽くす前に、その富を無限の技術に転換しなければならない」
と考え多くの企業を起こした。


いつ石炭がダメになるか?
石炭に頼らないとは何に投資すればいいのか?
結果だけ見れば簡単そうに見えるが、その時に考えるのは難しいだろう。

事実、日本の炭鉱の多くは資源の枯渇ではなく、石炭から石油へのエネルギーの転換によって縮小していったからだ。


また
もし再投資した事業が失敗していたら、「石炭だけにしとけばよかったのにー」
と批判された事は間違いなだろう。

結果論でしか語れないのだ。


利益をどこに再投資するかが重要である事が見えてくる。
再投資先を間違えない事が重要だ。


それを踏まえ渡辺翁の
”富を無限の技術に転換する”
と言うビジョンが素晴らしかったのではないだろうか?


ビジョンが具体的すぎると可能性を制限してしまう。無限の技術とは何だろう?と
可能性を探れるようなビジョンであった事がよかったのだ。


現代の市や個人にも言える事だろう。
皆、具体的な答えを求めすぎだ。そんなものは存在しない。
給料をもらっているだろうか?それは富だ。その富を消費するだけになっていたら危ない。


富を再投資するのだ。

可能性を探りながら、無限の技術に転換するのだ。。
少し先の未来の無限の技術は何だろうか?

ゴーストタウンになる前に。

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