ムンクの「叫び」は幻聴に慄く姿??死の恐怖と不安を描いた画家


ムンクの叫びと言えば誰もが知っている絵画でしょう。
決して美しいとは言えず、ホラーで不気味な雰囲気のある絵画です。

見ていると怖くなり、こちらまで精神的に不安になってしまいそうです。
その絵画に持って知っていきましょう!

ノルウェーの画家、ムンクとは?

エドヴァルド・ムンク 1863年12月12日 〜 1944年1月23日
19世紀末から20世紀にかけて活躍したノルウェーの画家です。
ノルウェーだけでなく世界的に知られている画家です。

病院での自画像 1909年

象徴主義と表現主義の先駆者とされています。
1890年代は世紀末芸術と呼ばれる時代で人間の心の中、内面まで捉えようとする動きがあった時代に活躍した画家です。

またムンクは精神疾患と遺伝的欠陥を抱えており、それが作品にも影響したとも言われています。

彼の作品は、人間の内面的な感情や絶望、死といったテーマを描き出し、観る者に強烈な印象を与えます。そんな彼の絵画に迫っていきましょう!
 

ムンクの生涯

ムンクは心の闇を抱えていた画家なのかもしれません。その心の闇の原点は子供時代にあると言われています。

1863年:ノルウェーのローテンに生まれる。父クリスチャン・ムンクは医師。
1868年:母カトリーネが結核で亡くなる。父は狂信的なキリスト教徒となり、子供たちを厳しく育てる。 
1877年:15歳の姉ソフィーエが結核で亡くなる。ムンクはこの経験から「死」を深く意識するようになり、後の作品に影響を与える。 

1877年以降:ムンク自身も病弱で、冬は慢性気管支炎に苦しむ。彼は「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語る。

1879年:クリスチャニア工業学校に入学するが、リューマチ熱により欠席が続き、退学。 
退学後、日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書く。 

1881年:オスロの王立芸術学校に入学。 
1883年:初めての個展を開催。 
1885年:国家芸術奨学金を得て、フランスへ旅行。 
1889年:パリのサロン・デ・アンデパンダン展に出品。 
1892年:ベルリンの展覧会で「叫び」を初公開。物議を醸す。 

1908年:神経衰弱(精神疾患)で入院。
その後、より明るい色彩とテーマの作品を描くようになる。

太陽 1911-1916年

1916年:エーガーンの農場を購入、スタジオとして使用。 
1940年:ナチスによる「退廃芸術」の一部として作品が没収される。 
1944年1月23日:オスロにて死去。 
彼の波瀾な人生は、その作品に深く影響を与え、観る者に強烈な感情を引き出す作品を生み出す原動力となりました。

ムンクと「叫び」 


「叫び」は、ムンクが1893年に制作した作品で、彼の人生と芸術の中心をなす作品です。
この絵は、背景に赤く染まった空と、その下で絶叫するように口を開けた人物が描かれています。

ムンク自身が「叫び」について語ったところによれば、彼はある日夕暮れ時に散歩をしていたとき、
突然空が血の色に染まり、大自然全体が無音の叫びを上げているように感じた
と言います。それが「叫び」の制作のきっかけとなったとされています。 

叫びはこの中心の人物が叫んでいるのではなく、ムンク自身が聞いた幻聴の叫びなのです。
油彩の他にテンペラ、クレヨン、パステル、リトグラフなどのバージョンがある。

「叫び」は、その独特な色使いと形象により、観る者に強烈な感情を引き出します。
絶叫する人物の顔は、恐怖や絶望を象徴するように歪み、背景の赤い空は不安や混乱を表現しています。

この作品は、象徴主義や表現主義の芸術運動に大きな影響を与え、後の芸術家たちに感情を直接的、かつ強烈に表現する手法を示しました。

同じ構図で描かれた、「不安」と「絶望」

今も影響を与える叫び

「叫び」は、その衝撃的なイメージと深い意味合いから、広く社会に認知され、多大な影響を与えました。

この作品は、数多くのメディアや商品、パロディも多く作られ、現代文化の一部となっています。

ホームアローンもこのポーズもムンクから。

ホラーのお面と言えばのこちらも。

Fatcatartのパロディ作品

また、「叫び」は過去に何度も盗難に遭い、その都度世界中の注目を集めるなど、その存在感を示しています。 

まとめ

ムンクと「叫び」は、芸術の世界において、人間の内面的な感情を描き出す新たな道を切り開きました。その衝撃的なビジュアルと深遠なテーマは、今日の芸術家たちにも引き継がれ、新たな表現の源泉となっています。

ムンクの「叫び」は、我々自身の内面に眠る感情に向き合うことの重要性を、今もなお伝え続けています。
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