学生の頃であるが、六本木にて「こども展」と「アンディ・ウォーホル展」の両方を見ることができ、その内容もさることながら、こども展とウォーホル展を比較してみることで気付いた「アートの価値の時代変化」が面白いなと感じた。
ウォーホル展を一通り見た後にこども展を見たのだが、ウォーホル展で最後に見た作品とこども展で最初に見た作品の、近現代アートと中世近世のようなアートのギャップが非常に目立った。もちろん異なる企画の展示なので違いがあって当然だが、2つの展示であまり間を空けずに続けてみた僕たちにとっては、タイムスリップでもしてしまったような感覚だった。
ミスター・ポップ・アートとも言われるウォーホルの作品は、どこか親しみやすさや手に届きそうな身近さがあるのに対して、こども展で見た17世紀初頭の精密とも言えるような写実的な絵画は、庶民的な自分には遠い存在であって冷たい印象を受けた。
「なぜそのように感じるのか?」と少し自分なりに考えてみた。
美術史を専門的に学んだわけではないので、勝手な憶測になってしまうが、中世や近世の西洋芸術は貴族や王族などといった上位階級の人が楽しむものであり、芸術家も上位階級の人のため(あるいは神のため)に捧げるものとして描いていたのだろう。
時代が進むにつれ、絵画は抽象的な表現(こども展では「絵が被写体に似ていることが意味をなさなくなる」と書いてあった)に変わっていくことで、被写体を正確に描くことより、ある意味で落書きとも見えるようなタッチで表現する、庶民にとって身近さをもつ芸術が現れることになる。
近代ではキュビズムやシュルレアリスムのような、これまでの視点を変えていくことにより生まれる芸術表現が流行る。
これらが今もなお評価されている要因としては、「もしかしたら自分でもできるのではないか」といった感覚に近い身近さがそこにあるからであるように思う。
実際ピカソの絵を見る庶民は「これくらいなら俺でもできる。」と思えてしまうほどピカソの絵は親しみやすく身近に感じるが、17世紀頃の精密な絵画を見せられてしまうと「すごいね。上手だね。」といって距離を感じてしまう。時代が進むごとに芸術は庶民にとって身近に感じられるものになってきているのだろう。
アンディ・ウォーホルは、近い将来誰もが芸術家になれるといった意味合いの言葉を残している。彼の作品を見ていると、今の時代にアートを制作するのに高等な技術はあまり重要ではなく、新しい視点での発想が重要であることに気付かされる。また、アートをビジネスと言い切るあたりも、アートを一般化して広めていこうとする姿勢や思想を持っていることがわかる。
音楽においても、クラシックミュージックのような高貴なものからジャズやロックなどが一般的に広まり、ポップミュージックが親しまれる世の中になってきている。
特に最近では、動画サイトなどに自分が歌った曲を公開し、そこにファンが集まるような「歌い手」とファンの関係が多く見られる。絵にしてもアーティストというよりは「描き手」がSNSに自分の絵を公開して人に見てもらえる場がネット上に増えている。
今の時代は、ウォーホルが考えていた通り「誰もが芸術家になれる」環境が整っているといえる。
こうしてアートは貴族や王族が親しむものから、誰でも絵を描いて誰でも見ることができるフリーなものになってきている状態に変わってきているといえる。
今後はこの状況がさらに加速していくだろうが、この先の課題といえば、アートを消費する側の見る目が確かなものにならないといけない事だろう。実際は大したことのない製作物に対して、その作り手が好きだからとか周りが称賛するからという理由で評価してしまうようでは、おそらくアートは成長していかないだろう。
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