ナポレオンが馬に乗っている肖像画を一度はみたことがあるだろう。堂々した威厳のナポレオンのイメージが伝わってくる絵画だ。その絵を描いた人物こそダヴィッドである。
理想のナポレオンを描いた画家
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748年8月30日 - 1825年12月29日)18世紀後半から19世紀前半のフランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。政治的な思想も持ち合わせ、フランス革命時には政治家としても活躍した。また後期はナポレオンに認められた画家として多くのナポレオンを描いた。
自由を求めた画風
18世紀から19世紀にかけた確立した新古典主義は、それまでのバロックやロココに反発する形で現れた。古典主義と言うように、昔をもう一度大事にしようという動きだ。特にギリシャ時代の芸術が顧みられた。それを牽引した人物がダヴィッドだ。
当初はその当時の主流であったロココを学んでいた。。ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェに弟子入りをして学んでいた。
しかしその後、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を取ると、その賞の制度でイタリアに留学する。
その時にイタリアの遺跡や古物を見たのをきっかけに、古典絵画の研究に没頭し作風は新古典主義の硬い作風になっていく。
フランス革命と政治家としてのダヴィッド
1789年、フランス革命が起こった。ダヴィッドもその革命に賛同し政治家活動に参加した。
ジャコバン派に加わると、1792年には国民議会議員にもなった。ジャコバン派がいくつかに分裂するとダヴィッドは政治家のロベスピエールに協力するようになる。
しかしロベスピエールは史上初のテロリストとも言われている人物で、恐怖政治を行った人物だった。 秘密警察のような保安院会と革命裁判所を設置したり、反対派や気に入らない人間を裁判所に送り次々に処刑したのだ。
ダヴィッドも王立アカデミーに対抗するため「芸術コミューン」を300名の芸術家で結成した。そして多くの人を処刑台に送り王立アカデミーを廃止した。
ちなみに「左翼」と言う言葉は、ジャコバンが議会で左の席に座ったことが由来だと言われている。
しかしそんなロベスピエールが長続きするわけもなく、クーデターが起きロベスピエールは処刑される。ダヴィッドも4ヶ月間投獄される。
その後解放されるが心境の変化があったのだろう、全く政治活動はしなくなった。
作品 球戯場(ジュ・ド・ポーム)の誓い
フランス革命時の出来事を描いた作品だ。財政の危機に陥っていたフランスは第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)にも課税をすることを検討していた。
そして議会が招集されたが、第一身分・第二身分と第三身分(平民)が対立をした。 アベ・シェイエスの呼びかけで第三身分の議員は自分たちこそ国民を代表する国民議会であると主張した。
激論の末に第一身分が国民議会に合流することが決定した。
それに脅威に感じた王族が議会を閉鎖した。。
しかし国民議会はヴェルサイユ宮殿の球技場に集まりここを議場にするとし、新憲法制定まで解散しないことを誓った。
その球戯場での近いの様子を描いた作品だ。
ちなみに球戯場とはテニスコートのことで「テニスコートの誓い」とも言われる。
作品 マラーの死
こちらの作品もフランス革命の事件を描いたものだ。モンターニュ派のリーダーの一人であるジャン=ポール・マラーがジロンド派のシャルロット・コルデに暗殺された事件を描いている。
マーラーを英雄に仕立て上げるための作品で、脚色も加えられている。
ナポレオンとダヴィッド
ダヴィッドを語る上でナポレオンの存在は欠かせない。表舞台から姿を消していたダヴィッドはナポレオンに見出され再び表舞台に登場したのだ。最も有名なナポレオンの肖像画「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」を描いたのがダヴィッドである。
ダヴィッドはナポレオンに首席画家に任命されるとプロパガンダとしてナポレオンの様々な絵を描いたのだ。
ナポレオンの失脚後はブリッセルに亡命しその地で生涯を終えた。
作品 サン・ベルナール峠を越えるナポレオン
第二次イタリア遠征のため、荒れ狂う嵐の中で馬にまたがり峠を越えようとするナポレオンの様子だ。実際は、防寒具を身に纏い、ロバでアルプス越えをしたのだが、ナポレオンを英雄的に描くために誇張されている。
左下の岩には霞んだ字でハンニバル、カール大帝の名を描き、その上にはっきりとした字でナポレオンの名が描かれている。
かなりかっこよく描かれている、イタリア遠征に行ったのは事実であるが、この絵はナポレオンの偉大さを伝えるための演出と創作が多く組み込まれている。
作品 皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式
パリのノートルダム大聖堂で行われた戴冠式の様子だ。ローマ法王から王冠を授かる様子である。
綿密な筆遣いで当時の光景をリアルに表現している。
しかし、ナポレオンを大きく、ジョゼフィーヌを若く美しく描いた。実際にはナポレオンは自分で王冠をかぶったと言うが、いかにも神聖な儀式のように描かれている。。
市民へのイメージ戦略としての意図もあったようだ。
ダヴィッドが描くナポレオンはほとんどが実際の姿とはかけ離れているという。 ナポレオンはこのような言葉をの残している 。
「肖像画は本人に似ている必要はない。そこからその人物の天才性が滲み出していればいいのだ」
ナポレオンのイメージを作る戦略があっことがこの言葉からわかる。
ナポレオンは絵画を今のメディアのように利用したのである。
まとめ
ダヴィッドは絵画を今のような広告的なものとしてもとらえた人物なのかもしれない。純粋に美術だけを追求するだでなく、自身の思想を伝える手段として使った。
そしてナポレオンには使われた。
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そのことがすぐに悪いことは言えないが動乱の時代に巻き込まれた人生であったのだろう。
記事協力:ネット美術館「アートまとめん」 http://artmatome.com/
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